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橋本龍太郎死去

 この人の功績についてはさておき、まずはご冥福を祈ります。一人の人間として亡くなったことに深く哀悼の意を表します。

 ・橋本元首相が死去(読売新聞)

 元首相の橋本竜太郎(はしもと・りゅうたろう)氏が1日午後2時、多臓器不全と敗血症性ショックのため、東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した。68歳だった。

 弟の高知県知事、大二郎氏と、橋本氏の二男の岳衆院議員が同病院で記者会見して発表した。

 橋本氏は昨年8月公示の衆院選に立候補せずに政界を引退。今年6月5日に大腸の大部分と小腸の一部を切除する緊急手術を受け、その後、意識のない状態が続いていた。

 告別式は3日、都内で近親者のみで執り行う。後日、内閣・自民党合同葬を行う方向で調整している。自宅は東京都港区南麻布3の5の49、ホーマット・オーガスト。

          ◇

 橋本氏は1937年7月、東京都渋谷区で、厚相などを歴任した竜伍氏の長男として生まれた。大二郎氏は異母弟。

 60年に慶大法学部を卒業後、呉羽紡績(現・東洋紡績)入社。竜伍氏の死去を受け、63年11月に衆院旧岡山2区から26歳で初当選。以来、連続14回当選した。厚相、運輸相、蔵相、通産相、自民党政調会長、幹事長などを歴任。96年1月、自民、社会、さきがけの3党連立政権の村山富市首相(当時)の辞意表明を受け、第82代、53人目の首相に就任した。

 橋本内閣は、行政、財政、経済、金融システム、社会保障、教育の「6大構造改革」を提唱。98年6月に中央省庁改革基本法を成立させ、現在の1府12省庁体制の基盤を作るなど、改革の方向づけや、省庁再編で功績を残した。

 外交面では、96年4月、米軍普天間飛行場の全面返還を米政府と電撃的に合意するなど、沖縄の米軍基地問題に尽力。また、エリツィン露大統領(当時)との首脳会談で、2000年末までの平和条約締結で合意し、北方領土交渉でも手腕を発揮した。

 しかし、97年9月の第2次橋本改造内閣発足の際、ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行氏を総務庁長官に起用して世論の批判を招き、内閣支持率が低下した。

 同年には山一証券、北海道拓殖銀行の破たんが相次ぎ、経済不況が深刻化。翌98年7月の参院選で、経済政策に関する自らの発言の乱れもあって惨敗し、退陣に追い込まれた。

 首相退任後は、2000年5月の小渕元首相の死去を受け、小渕派を継承し橋本派会長に就任。01年4月の党総裁選では、再登板を狙って立候補したが、小泉首相に敗れた。

 02年3月、心臓の弁がうまく機能しない「急性僧帽弁閉鎖不全症」で手術を受けてからは、健康面の衰えも目立つようになった。04年7月、日本歯科医師会(日歯)側から橋本派への1億円ヤミ献金事件の責任をとり、同派会長を辞任。05年8月公示の衆院選には立候補しなかった。

 06年3月に政財界の対中国関連7団体を率いて訪中し、小泉首相の靖国神社参拝をきっかけに悪化した日中関係の改善を求めるなど、引退後も外交面などで活躍した。


 ・小泉構造改革の先駆者 橋本元首相評伝(産経新聞)

 近年、橋本龍太郎氏ほど毀誉褒貶(きよほうへん)の激しかった政治家はいないだろう。
 26歳で衆院議員に初当選した、いわゆる2世議員の走りである。

 父の龍伍氏は吉田茂首相を支えた「吉田十三人衆」の1人で、足が不自由だったこともあり、生涯を社会保障政策に取り組んだ政治家だった。橋本氏は、「父には、政治は弱い人間を助けるためにある、と教えられた」と常々語っていた。

 橋本氏が次代を担うエースに躍り出たきっかけは、昭和63年から平成元年にかけて吹き荒れたリクルート事件だ。党内実力者が相次いで疑惑にさらされ、橋本氏は表舞台に上がる。

 しかし、その後、女性スキャンダルなどで2度チャンスを逃す。そのころ、橋本氏の私邸で明け方近くまで話し込んでいたとき、ポツリと漏らしたことがあった。

 「僕は、総理・総裁になれないよ」

 竹下登元首相(故人)が「怒る、威張る、拗(す)ねる」と評したように、政治家として畏敬(いけい)されても仲間を作れない性格が災いしたともいえる。

 平成8年に首相の座に就いた橋本氏の最大の功績は、行政改革だ。特に内閣府の下に経済財政諮問会議を創設、首相権限を強化した。小泉構造改革の先駆者であり、小泉純一郎首相は橋本氏が強化した権限を存分に活用し、内閣や与党に指導力を発揮したといえる。クリントン米政権との間で沖縄県の悲願だった普天間飛行場の返還に合意したのも特筆すべきだ。

 しかし、消費税引き上げ、特別減税廃止などで景気が悪化。10年の参院選大敗で、退陣に追い込まれた。13年の総裁選で、再登板を目指したが小泉首相に惨敗。その後、日本歯科医師連盟からの闇献金事件が発覚し、派閥会長を辞任、先の郵政解散による総選挙で政界を引退する。

 父・龍伍氏の影響もあり、自民党内の社会、労働部会を中心に地歩を固め、厚生族のドンと言われたが、力の源泉となった日本医師会や日本歯科医師会との関係が、最後に政界からの引退に追い込んだ。

 日歯連事件といい、今春の日中友好7団体の代表団を団長として訪中し、靖国参拝問題で中国側の主張を聞くだけに終わった印象を内外に与えるなど、政治家としての晩節は決して褒められたものとはいえないのが残念だ。

(編集総務兼電波企画室長局次長 奥村茂)


 この場で彼の行ってきたことに関してどうこう言うつもりはありません。ただ、産経新聞の記事にあるとおり、彼ほど、日本の政治家の頂点に立った人間にもかかわらず色々な評判がある方も珍しかったと思います。

 彼が昔から期待されながら、しかも総理大臣にもなっていながら結局最後に一抹の寂しさが残るイメージがあるのは、彼自身の性格にも原因があったのではないかと思います。

 亡くなった方にあえて言うのも失礼かもしれませんが、彼はどちらかというと他人に対しても厳しさを求める人だったからでしょう。彼が行った構造改革や消費税の引き上げは、自分への厳しさと同時に他人へも厳しさを求めたように思います。

 ただ、そうした厳しさの裏に暖かみというか、優しさが見えればよかったのですが、それが感じられなかったのが残念でした。女性関係にも甘かったのも彼の評判を落とす原因ではないかと思います。

 私の個人的な感想ですが、彼は人生に急ぎすぎて逆に敵を作り、回り道が多くなってしまったのではないかと感じます。

 亡くなって天上で少しは自分の人生を振り返っているのではないかと思います。自分自身で人生をどう思っているのでしょうか。

 本当にご冥福を祈ります。
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2006年07月01日 政治 トラックバック:- コメント:6

 このタイミングで逝ってくれてよかったと思っている。

 中国と余計なことをし始める前に八百万の神様が連れて行ってくれたことを感謝する。

 正直、彼は急ぎ過ぎた。ゆえに顰蹙を買った。

 これが外交対中戦線やポスト小泉にいい影響があればいいと思ってる。

2006年07月02日 どらっへ URL 編集

こんばんは
私の場合、嫌いであったが、亡くなった今となっては何とも悲しいです。回想することが多々ありますね。
死んだらあかん!
ご冥福をお祈り致します。

2006年07月02日 テツ URL 編集

周りに野中だの何だの宜しくないのが跳梁跋扈してたし、日歯連事件ではかつての部下に愛想を尽かされるし、どうも大事な時に上手くことが回らない星の下に生まれたような。

ま、さよなら。

2006年07月02日 煬帝 URL 編集

中国の女スパイにはまって多額ODAをとられ、総量規制でバブルを崩壊させ、消費税UP(3%→5%)を強行し、上向きかけた消費の腰を折った。日本の失われた10年はほとんどこいつのせい。1億円の闇献金を知らないと頬かむり。これほどの売国奴って河野洋平と村山富市くらいしか他にいないか。

2006年07月02日 worldwalker (・∀・) URL 編集

こんばんは。
TBありがとうございます。
私個人はこの方は特別好きでも嫌いでもなかったのですが、
やはり偶然とは言え、
ほんの一瞬でも確かに自分の目の前に存在した方ですし、
賛否両論いろいろあるようですが、
表も裏も色々功績があるにせよ、
どんな方にも必ずご遺族があるのだから…。
何だか複雑な感があるのですが、思わずTBさせていただきました。(^^ヾ

2006年07月02日 ありあ URL 編集

TBありがとうございます。
ご存じの通り私は「ネット右翼w」なもので、媚中派の彼には功罪の“罪”ばかりを感じます。
しかし彼の「日米安保共同宣言」によって、日本が「自主防衛」を本気で考えなければいけなくなったのは事実ですし、失敗したとはいえ行政改革に先鞭をつけたのも事実なんですよね。
彼が媚中派でなければ、案外言い線行っていたのかも……というのが、訃報に当たって自分なりに調べてみた感想です。

2006年07月03日 you URL 編集












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