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【国内】共産党前議長、宮本顕治氏死去

 まずはご冥福をお祈りします。この人が今亡くなったことによる政治的な影響は皆無なのですが、この人が残した功績という意味では大きなものがあったと思います。

 ・共産党の宮本顕治元議長が老衰で死去(iza)

 半世紀にわたって日本共産党の指導的地位にあった同党元議長の宮本顕治氏が18日午後2時33分、都内の病院で老衰のため死去した。98歳。山口県出身。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。葬儀・告別式の日取り、喪主などは未定。共産党は、不破哲三前議長を経て、志位和夫委員長の指導体制が定着しており、宮本氏の死去による路線への影響はないとみられる。

 宮本氏は明治41年10月20日、山口県光井村(現・光市)生まれ。昭和6年に東大経済学部を卒業後、非合法政党だった共産党に入党。8年5月に党中央委員に。同年12月に当時、党財政部長だった小畑達夫氏が死亡したスパイリンチ事件(共産党はスパイ査問事件と呼称)で逮捕され、裁判では、19年に傷害致死、治安維持法違反などで無期懲役の有罪となり20年5月に大審院で判決(後に同法廃止などで取り消し)が確定、網走刑務所に収監された。終戦後の同年10月に釈放された。

 その後、徳田球一、志賀義雄両氏らと党再建に取り組み、党が武装闘争を含む極左主義から転換した33年の第7回党大会で書記長に就任し、野坂参三議長とともに実権を握った。45年には委員長に就き、最高指導者となった。

 同党の機関紙「赤旗」の部数拡大による党勢拡大や各議会での議席伸長を目指す平和革命路線をとり、54年の衆院選では41議席を獲得した。

 52年から2期12年間、参院議員(全国区選出)を務め、57年7月の第16回党大会で委員長を引退し議長に就任。57年には不破哲三氏を委員長へ昇格させ、平成2年には志位和夫氏を書記局長に抜擢(ばってき)するなど最高指導者の立場にあったが、9年9月、一線を退き名誉議長となった。

 対外的には昭和44年ごろから「自主独立路線」をとって旧ソ連、中国両共産党との関係を絶った。


 今まである共産党の歴史の中で、最盛期を作り出したのは間違いなくこの人です。もちろん、宮本氏に独創性の高い方向性を打ち出すことが出来たかどうかについて異論は確かにあります。

 共産党の歴史は常に権力争いで、宮本氏の路線は野坂氏の時点ですでに決まっていたという視点もあります。ただ、共産党は権力が交代する時点で、今までの権力者を徹底的に否定するため、野坂氏の功績は現在では注目されません。

 今不破・志位体制が宮本氏を褒め称えているのは、宮本氏の直系の路線だからではなく、宮本氏が病気入院し、直接的に公に発言を出せる能力がなくなったからに他なりません。そういった意味で、宮本氏の晩年は(本人にそういった能力が残っていたかに関わらず)最盛期に比べて不遇なものでした。

 まあ、色々と書いてしまいましたが、共産党にとってはかけがえのない人であり、共産党が躍進するために必要な人物でした。
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2007年07月18日 政治 トラックバック:- コメント:3

仲間を売って、最終的には委員長に昇り詰めたと認識してます。
共産党って、どこの国もこんなやり方しか上に上がれないのでしょうか?
以前、さいごうさんが私のコメントへ共産党は中央は権力闘争ばかりと書き込まれましたけど、ずうっとそうなんでしょうね。

2007年07月19日 水兵長 URL 編集

何はともあれ、一つの時代が終わったわけですね。
個人的に共産党の没落の始まりだとよいのですが。

2007年07月20日 どらっへ URL 編集

コメントありがとうございます。
水兵長さん、
そんな前のコメントを覚えていただいて恐縮な限りです。共産党に関しては、権力闘争と内ゲバの繰り返しで、彼らのことは全く信用していません。

どらっへさん、
私も絶対に彼らが人気を取り戻すことなどないと思っています。

2007年07月22日 さいごう URL 編集












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